自分を守る権利


川崎市で、理不尽で許しがたい凶行が起きました。路上でスクールバスを待っていた小学生らに男が近づき、刃物で次々と刺し、小学生16人と近くにいた成人2人の計18人が襲われ、小学6年生の女児と別の小学生の保護者とみられる30代男性の計2人が死亡。40代女性1人、小学生女児2人の計3人が重傷を負いました。ネット上では当然の事ながらこの凶行を非難する声が殺到する中で、ある若い社会福祉士の論調が僕の目に止まりました。まずはその要旨をやや長くなりますがご紹介します。

(以下その要旨)

要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。

類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。

「死にたいなら人を巻き込まずに自分だけで死ぬべき」「死ぬなら迷惑かけずに死ね」というメッセージを受け取った犯人と同様の想いを持つ人物は、これらの言葉から何を受け取るだろうか。

やはり社会は何もしてくれないし、自分を責め続けるだけなのだろう、という想いを募らせるかもしれない。

その主張がいかに理不尽で一方的な理由であれ、そう思ってしまう人々の一部が凶行に及ぶことを阻止しなければならない。

そのためにも、社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない、という強いメッセージを発していくべき時だと思う。

人間は原則として、自分が大事にされていなければ、他者を大事に思いやることはできない。

社会全体でこれ以上、凶行が繰り返されないように、他者への言葉の発信や想いの伝え方に注意をいただきたい。

(要旨終わり)

文章としてもやや稚拙である、以上の論調をネット上で公表した筆者に対し僕は直ちに次のようなリプライを本人に返しました。

「うーん、残念ながらこれからも内外を問わずこの様な凶行は繰り返されるであろうし、ユートピアじみた社会は実現しないでしょう。もっと現実を見据えた具体的な行動が必要なのかもしれません。被害者は死んでも死に切れないでしょう。」

はっきり言って、不必要な炎上を避けるために敢えて抑制をかけた表現にしてはいますが、「現実を見据えた具体的な行動」とは「自分を守る権利」という日本国憲法をはじめその他の日本の法規定には一言も書かれていない権利の主張の事です。合衆国憲法上では個人の銃所持を認める理論的な根拠となる考え方です。

一神教が基となって延々と続く宗教対立を始めとした貧困や憎しみの連鎖の象徴であるテロ行為や、異常者による国や社会を混乱あるいは不安に陥れる行為に対し筆者のいう他者への言葉の発信の仕方に注意する、ということは当然なのですがそれが何かの解決策に繋がるのでしょうか。

このような凶行が起ころうとした時に直ちに阻止もしくは反撃できる法的根拠は現行の刑法やその他の法律では何もない以上、少なくとも自分を守る権利について一刻もはやく議論され、具体的な行動がとられなけれが将来のあった犠牲者は死んでも死にきれないでしょう。

法哲学ゼミナール

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