74年前の沖縄戦に思う


糸満市にある沖縄本島最南端には平和の礎(いしじ)があります。沖縄戦での犠牲者のお名前をできる限り忠実に石碑に記したものですが、その石碑は都道府県別、国別に並んでいて、当然のことながら県外の犠牲者はほとんどが男性であり、地元では女性が多くなっています。
この時期には日本軍主力はほぼ壊滅状態であって、多くの徴用兵は地方の酒屋のおじさんであったり年配の教員であったりとごく一般の方々だと思われます。
現在ここに刻まれたお名前は、国内、海外を合わせて約15万弱でありそのうち県外の方は7万強になっています。

沖縄を守るためにこの年の四月には当時世界最強の戦艦大和は連合艦隊の海上特攻の命令を受領、呉港を出港し沖縄に向かう途中鹿児島県沖で、米空母の艦載機による集中攻撃や無数の魚雷攻撃によって沈みました。
地上戦によって、多くの沖縄の人々の命が失われましたが全体の約半数が県外であった事も、沖縄を守ろうとした強い国家意識を感じます。

平和記念公園


今回は昭和二十年の四月といった時期にどんな事が起こったのかを感じるために、以前からお参りしたいと思っていました、チビチリガマや義烈空挺隊玉砕之地に足をのばしてみました。




読谷村は沖縄本島のやや北部に位置し、那覇からは車で一時間強といったところにチビチリガマと義烈空挺隊玉砕之地には掩体壕も残っています。
掩体壕(えんたいごう)とは、軍事目的で戦闘機や資材等を敵の空襲から守るために作られたかまぼこ型の壕であり当時は日本各地にありました。ここでは中までは入れませんでしたが結構広い空間となっています。

柵の内側には三枚のパネルが掲げてあって、集団自決のことが記述されています。一部引用しますと、「集団自決とは国家のために命を捧げよ、といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死であり、云々」とあります。

掩体壕


この『義烈空挺隊』が行った『義号作戦』は、爆撃機が強行着陸して破壊活動を行い、飛行場が機能停止状態に陥っている隙に、沖縄周辺海域にいる米軍艦艇を攻撃するという作戦でした。
『義号作戦』には、12機の重爆撃機が投入され、熊本から沖縄に向けて出撃したものの、4機が故障で九州に引き返し、内5機が米軍に撃墜され、残った3機の内、1機は読谷飛行場へ、2機は嘉手納基地へ向かいました。
戦果は、読谷飛行場に向かった1機が胴体着陸に成功し、破壊活動を行うことに成功しましたが、もちろん特攻が任務ですから作戦を遂行した後全滅しています。

チビチリガマ


更に車で十五分ほど走ると、チビチリガマがあります。ガマといえば一般にひめゆりの塔がイメージされますが、実は県下にはその自然を活かし無数のガマと呼ばれる鍾乳洞がありここチビチリガマは八十名以上の自決者がでその半数以上は子供でした。
米兵の上陸に対し村民たちは、婦女子や子供を守ろうと最後の手段としてこれらの鍾乳洞に立て籠もりますが、酷い環境や酸欠状態によって米兵の説得にもかかわらず多くの人々は自決の道を選んでしまいました。

今回は、急遽予定が変更になって以前から気になっていたガマや戦跡を訪れることにしましたが、現実の沖縄でいまだに語られる「本土の捨て石」には疑問を感じ得ません。
平和の名のもとに国民の命を守るすべが一字も書いてない憲法の改正の議論が一向に進むことは無く、拉致被害者の救出さえ出来ない国家主権とは一体何なのでしょう。






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